宮下正一
学校法人川島学園鹿児島実業高校硬式野球部監督
1972年8月16日生まれ
鹿児島県薩摩川内市出身
川内市立川内小学校卒業
川内市立川内中央中学校卒業
鹿児島実業高校卒業
日本鋼管福山※NKK、現JFE西日本(1991~2003)
鹿児島実業高校コーチ(2004~)
鹿児島実業高校監督(2005~)
<鹿実黄金期の主将>
90年、エース上園達二(三菱重工長崎)や、スラッガー内之倉隆志(福岡ダイエーホークス:ドラフト2位)を擁し、春夏連続甲子園ベスト8、国体優勝を果たした鹿実黄金期の主将を務める。
90年夏二回戦の高知商戦では初回先頭打者初級ホームランを放つ。プレーボールのサイレンが鳴りやまない中のホームランであった。
<パワーリフティングで鍛えた少年時代>
鹿児島県川内市(現薩摩川内市)の川内小学校5年からボーイズリーグ大川ヤンチャーズで野球を始める。
中学校は、創立間もない川内中央中学校に進学。中学校の野球部には所属せず、フレッシュリーグの川内スラッガーズで活躍する。
小柄ながらもパワーリフティングで鍛えたパンチ力で強打の内野手として県内で注目を集める。
<低迷期の鹿実へ進学>
高校進学時は、県内の強豪校から勧誘を受ける。当時の鹿児島実業は低迷期であったが、規律正しい校風や、野球部の一体感に感銘を受け進学を決める。入学後は、1年夏から背番号12でベンチ入りを果たし、初戦の鶴丸戦に2番ショートで先発出場するも、3打数無安打でチームも1-5で敗れる。2年夏もレギュラーとして活躍し準々決勝の国分戦ではコールド勝ちするも、準決勝で鹿児島商に敗れる。
<主将として甲子園春夏ベスト8>
主将になった3年時は、秋の鹿児島県大会で優勝し九州大会に出場。
春のセンバツ出場がかかる九州大会では、初戦で小林西(宮崎)、準々決勝で竜谷(佐賀)、準決勝では柳ヶ浦(大分)、決勝では日田林工を下し優勝し6年ぶりの甲子園出場を果たす。
90年春のセンバツでは、初戦で優勝候補である秋田経法大付属(秋田)との延長戦を制し勝利、二回戦も川西緑台(兵庫)に完封勝ち。
準々決勝では東海大甲府に接戦の末敗れるも、ベスト8の成績を残す。
<春夏連続ベスト8>
3年夏の鹿児島大会では準々決勝の川内戦、準決勝の出水中央戦をいずれもコールド勝ち。
決勝では、清水ー松崎健のバッテリーを擁する武岡台に終盤まで1-0と苦戦するも8回に3点追加し4-0で勝利。
春夏連続の甲子園出場を果たす。
90年夏の甲子園では、初戦で日大山形(山形)に9-0で勝利。
二回戦の高知商(高知)戦ではトップバッターの宮下が初回先頭打者初級ホームランを放つ。
「初回先頭打者初級ホームラン」は68年ぶり2度目で、宮下以降は出ていない。
鹿実はこの試合を4-3(延長12回)で制す。この日は8月16日で宮下の18回目の誕生日であった。
三回戦では強豪の松山商(愛媛)を4-2で下し、春夏連続の甲子園ベスト8を果たす。
準決勝は鹿実有利と見られたが西日本短大付属(福岡)のアンダースロー中島投手を打ち崩せず3-4で敗れる。
鹿実は翌年も連続出場し、春ベスト8、夏ベスト4の結果を残す。
強力打線「桜島打線」を武器に全国の強豪をなぎ倒す「鹿実」に県民は熱狂した。
<日本鉄管福山(NKK)へ進む>
高校卒業後は、日本鉄管福山へ進み社会人野球への道へと進む。(日本鉄管福山はその後、NKKへと名前を変える。)
宮下はNKKでも主将を務め、都市対抗、全日本選手権進出を果たす。
2003年、NKKのJFE西日本への統合に伴い、現役を引退。NKK最後の主将として名前を残した。
<母校鹿実の監督に就任>
04年、母校鹿実のコーチに就任。
長年、監督として率いた久保克之監督が02年に退任。
後任の竹之内和志監督も04年退任し、宮下は05年から監督を務めることになる。
■05年夏
監督就任1年目の05年夏は県大会4回戦で、鹿児島工に2-4で敗退。
■05秋~06夏
後にプロ入りする伊集院峰弘(鹿実-巨人)を擁するチームであったが、05秋県大会は準々決勝で鹿児島工に3-8で敗退
※この年の鹿児島工は「代打の神様」今吉晃一、榎下陽大(九産大-日本ハム)、鮫島哲新(中央大-新日鉄鹿島)を擁し、夏甲子園ベスト4を果たす。
春県大会は準々決勝で神村学園にコールド負け。06夏県大会も3回戦で鹿屋工に0-3で敗れる。
■06秋~07夏
秋県大会はベスト8で神村学園に敗退。春県大会は監督就任後初の県優勝を果たす。春九州大会では鳥栖(佐賀)に二回戦で敗退。
夏は決勝で神村学園に4-5で敗退し甲子園出場を逃す。
当時の県高校野球界は「鹿実」「樟南」の二強時代が終わり、神村学園や鹿児島工等を含めた群雄割拠の時代。
そんな中、宮下監督率いる鹿実は結果を残せない時期が続く。
<監督として初の甲子園出場>
■07秋~08夏
秋県大会はベスト8で神村学園に敗退。春県大会はベスト8で鹿児島商に敗退。
しかし、夏県大会ではセンバツ出場の鹿児島工を4-2で下し優勝。
監督として4年目の夏、宮下は初の甲子園出場を果たす。
甲子園では1回戦で日大鶴ケ丘(西東京)に14-1、二回戦では赤川(ヤクルト)擁する宮崎商(宮崎)に延長12回の末4-1で勝利するも、
三回戦で近田(ソフトバンク)擁する報徳学園に3-7で敗れる。
甲子園初采配ながらも3回戦まで進出し、名門復活の狼煙を上げたかに見えた。
<まさかの県大会初戦敗退>
■08秋~09夏
甲子園出場の余韻冷めやらぬ秋県大会はベスト4で川内に敗退。
春の県大会ではベスト8で福倉(第一工大-西武)擁する鹿屋中央に敗退。
夏県大会では第3シードながらも初戦の徳之島戦に延長13回の末2-3で敗退。92年以来17年ぶりの初戦敗退であった。
<名門復活への落し穴>
■09秋~10夏
主将の藤田亮馬(専修大)、エース用皆崚(新日鉄住金ー東海REX)を擁し力のあるチーム。
秋県大会は鹿児島城西を下し優勝。九州大会では二回戦で宮崎工(宮崎)に敗退。
春県大会は樟南に敗れ準優勝。九州大会では二回戦で明豊(大分)に敗退。
夏県大会は樟南を下し優勝。前年の初戦敗退によるバッシングを跳ね返す2年ぶり17回目の甲子園出場を果たす。
甲子園では初戦の二回戦で能代商(秋田)に15-0で勝利。三回戦で九州学院(熊本)に7-8で敗れるも、終盤の粘りが光った。
■10秋~11夏
翌10年は前年の甲子園メンバーであるエース野田昇吾(西濃運輸-西武)、揚村恭平(青学大)、濱田竜之佑(専修大-日本新薬)などが揃った力のあるチーム。
秋県大会は決勝で鹿児島商を18-4で下し優勝。九州大会では高城捕手(横浜DeNA)擁する九州国際大付(福岡)を下し優勝。
明治神宮大会では決勝で日大三(東京)に敗れるも準優勝という好成績を収め、センバツ出場を果たす。
センバツでは、一回戦で優勝候補の浦和学院(埼玉)、二回戦では城南(徳島)に勝利。
準々決勝では優勝した東海大相模(神奈川)に0-2で敗れるも、夏の優勝候補として名乗りをあげる。
しかし、夏県大会の準決勝で薩摩中央にまさかの敗戦。この敗戦は鹿児島県球史に残る番狂わせと評された。
実際にチームはセンバツ以降、ケガ人を抱えており、宮下はこのことを「春から夏を迎えることの厳しさ」として語っている。
<県で勝つことの難しさ>
■11秋~12夏
前年のショックを引きずるスタートになった新チームは、秋県大会で鹿児島に三回戦で敗退。
春県大会も松陽に三回戦で敗退。夏は決勝まで進むも神村学園に敗退する。
■12秋~13夏
横田慎太郎(阪神)、福永泰志(三菱自動車岡崎)を中心とした力のあるチーム。
秋県大会ではセンバツ出場の尚志館に三回戦敗退。
春県大会ではベスト8で鹿屋中央に敗退。夏の県大会は決勝まで進むも樟南に3-4で敗退する。
■13秋~14夏
秋県大会はベスト8で神村学園に敗退。
春県大会は四回戦で優勝した鹿屋中央に延長14回の末、3-4で敗退。
夏県大会ではベスト8で神村学園にコールド負けを喫す。
<再び甲子園へ~名門復活~>
■14秋~15夏
甲子園から遠ざかっていた鹿実であったが、14年には秀岳館(熊本)から鹿実OBの本坊慎一郎コーチが加わる。
浜田浩二部長、96年春全国制覇メンバーである岩切信哉コーチと共に盤石の指導体制でチームの強化を図る。
秋、春県大会はいずれもベスト8止まりであったが、夏は準決勝で宿敵神村学園に勝利、決勝で鹿児島城西に勝利し、5年ぶり18度目の夏甲子園出場を果たし、甲子園初戦では、北海(南北海道)に1イニング10得点の猛攻で勝利する。
■15秋~16夏
新チームでは、主砲綿屋を中心とした打力で秋県大会優勝。九州大会でもベスト4入りし、二期連続の甲子園出場を果たす。
甲子園初戦では優勝候補の常総学院(茨城)に逆転勝ち、二回戦では優勝した智辯学園(奈良)に惜敗。
強烈なリーダーシップで鹿実野球部を牽引し、三期連続甲子園出場と、鹿実初の夏全国制覇を目指す。
桜島打線で90年代の甲子園を席巻した「鹿実」が今、名門復活を果たそうとしている。